昭和五十六年五月二日 朝の御理解


御理解第二節「先の世まで持って行かれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてるという事がない。」


 神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来ると教えられるのに対して、御神徳を受けて行くという人が極少ない。どこかで信心が間違ってきておる。どこかで信心が狂ってきて居る。信心とはどこまでも神を信ずる心、信ずる心。その信ずる心がいよいよ募り、いよいよ限りないものになっていく為に信心になれよと。
 神様を信ずる心というものは、いよいよ神様から信じられる事の為の過程を大切にしなければならない。それにはやはり真心である。その又真心というのが限りないものであり、又これが真心だと思うておってもそれが真心でなかった場合もあったり、間違うておる場合もある。
 真とは尽くしても尽くしても尽くし足りんのが真だと。確かにそうでしょうけれども、それは真心になる事を求めて行くのであり、その真、真心という事がどういうふうにして極められていくか。私はどこまでも我が心が神心になっていく事だと思う。信心である。信ずる心、真心、それから神心。
 教祖様の御信心の私は一番素晴らしい事はね、神心を目指す事を教えて居られる事。だからその神心を目指していく限り、信心に狂いはない。間違いはない。ところがその信心すれば誰でも受けられるという信心がどの辺からか違うてくる訳ですね。
 信心、「神徳とは神の御信用じゃ」と久留米の初代石橋松次郎先生は教えておられます。神様を信ずる心。それからいよいよ真心の追求、そこから云わば信じて居る限りない信心の進展が計られる。その計らい、いわゆる過程というか、又はそれを確かめる定規とでもいうか、それは神心である。それなのにどの辺からか間違って居る。
 今日は御祈念中に、あの浦島太郎のあの絵を、絵のようなものを頂いた。或る日浜に出ると子供達が大きな亀を捕らえていじめておる。それを見て可哀想と思うて、それを子供達から買い取ってそして海に放生してやる。又或る日浜に出ると先だってのその亀が、先日は助けて頂いたお礼を述べて、素晴らしい所に連れて行って差し上げますというて背中に乗ってくれと言う。言われるままに背中に乗ると、まあそれこそ亀の背中に乗って荒海を泳いで行くのですから、随分危険な思いやら危ないと思うた事もあっただろうと思うね。竜宮城に着くまでは。そして竜宮城に着いたらそれこそここが極楽という所であろうかというような素晴らしい毎日を十年間という日を、あっという間に過ごしたというのである。ぼちぼち里心がついて帰らねばと、そんならお帰りになるならばというて、それこそ乙姫様に取り囲まれてまあ歓迎を受けて帰る時は、お土産にというて玉手箱を頂いた。この玉手箱は決してあちらにお帰りになっても蓋を開けなさるような事があってはなりませんよと、固く言われておったけれども帰ってきたらもうそれこそ、自分が住んでおった村も、町も無くなって、いわゆる変わり果てているのに呆然とした。。そして、過ぎ来し方を思うてその乙姫様から言われておった玉手箱を開けては為らぬ物を開けてしもうた。中から白い煙が出てあっと言う間におじいさんに変わっておったというのである。
 そういう物語なんですけれど、今日はどういう訳でそういう事を頂いたんだろうかと私は思うたんですけれども、今日皆さんに聞いて頂こう。
 頂いておる御理解は“信心すれば誰でもおかげが受けられる”と言えば三代金光様ですかね。無学に等しい先生が今の学院ですね、学院を出られた時に、「私は無学の者でございます、だからどういうような信心をさせて頂いたらおかげになりましょうか」とお伺いされたら、「此の方の道は親切一つで助かります」とおっしゃった。 親切。親が子を思う切実心なんである。
 又福岡の初代は、これは四神様の時代ですから、布教の場所をお伺いになられたら、福岡がよかろうと仰せられた。ところが福岡という所はなかなか、云うなら書生が多い。学問をする人達が多い所で、私のような無学の者ではとても勤まりそうにもありませんという意味の事を申されたら、四神様がこれが福岡のシンともなったと言われる「馬鹿と阿呆で道を開け」と仰せられた。
 だからまあ例えて云うなら福岡の教会のながれを汲んでおる合楽でもやはりこれに徹した。これに徹せずして利口になる、賢うなる事に精進するような事ではおかげにならん。 神様の教えをただひたすらに受けて受けて受け抜かせて頂く。福岡の教会にこの御教えがある限りその事を極めていく限り、福岡の教会が大繁盛でしょうね。又その流れを汲む私共でもこの馬鹿と阿呆に徹していく限りいよいよ信ずる力は生まれてくるだろう。はあ真心とはこういう事かと分かってもくるだろう。そしてその馬鹿と阿呆の中から神心も又育っていく事であろう。
 御神徳というのは神様の教えをね、間違わず受けていく事。親切心。親が子を思う切実心。そういう思いで浦島太郎は亀が可哀想だと思うて助けた。いわゆる御神意に適うた心である。それから次のおかげに導こうとしたその亀が、それはただ楽な事ではなかったろう。竜宮城に着くまでは、こりゃ果たしてどいう所に行くだろうかと、それこそ亀の背中にしがみつくようにして行ったのではなかろうか。こりゃ危ない、危険を感じた。こりゃ亀の背中から降りなきゃち言うたらそれでおしまいになっとっただろう。そこところの過程を皆さんが云うなら神様任せ、神様任せとは親先生任せといったような風に頂いておられるのがそうであろう。
 親先生は言われる通りの事をして、云うならばますます難儀な事になっていくという人もある。そういう時に私は丁度背中に、亀の背中に乗って合楽世界を目指しておるというか、竜宮城を目指しておる時じゃなかろうかと思う。そこにそういう一つの過程があってそこに合楽世界というか、極楽世界というか、いわゆるおかげの世界がある。
 そのおかげの世界があまりにも素晴らしいもんだから、神様の言われる事をついつい忘れてしもうて開けてはならない物をその場で開けて、そしてあっと言う間に白髪のおじいさんである。この辺のところが大事にされなきゃならない。
 馬鹿と阿呆で道を開けと言われて馬鹿と阿呆に徹してそれがだんだん信心はただ有り難うなる稽古。偉くなる為でもなからなければ、賢うなる為でもない。ただ有り難うなるという事は、ただもうそれこそ底の無いような馬鹿と阿呆になる事だと私は思う。
 偉大といやあこれ程偉大な事はなかろう。大きいと言えばこれ程大きい事は無かろう。そしてその教えを子に孫に伝えていくという事が大事である。
 昨日はお誕生のお祝いの時に、お祝いにあれは何とかいう素晴らしい今度の埋立地に大きな館というでしょうか、もう劇場なんかでも普通の劇場よりも大きい劇場がそん中に在るというようなそこの鱗落としで昨日招待を受けて昼参りました。そりゃもう本当に至宝と言われるような人達ばかりの芸ですから、ところが此の頃目が薄うなっとるもんですから、分からないですけれども、ただ私感じいったのはあれは清元何とか大夫という方が八十何歳だそうですが、親子孫三代での方で四人、子供さん達ばかり四名で清元、浄瑠璃ですよね、を四十分にわたって語られた。もう本当に時間を感じさせませんでした。浦里と時次郎のもうそれこそ情痴の世界の綿々としてもう八十何歳のおじいさんがどうしてあんなきれいな声が出るだろうかと思うようなうっとりするというかもう時間を忘れたような一刻でしたが厳しい芸の世界にあってあれ程の声を保たせ、私は素晴らしいと思ったのは子に孫にもう確かに伝えておられるという事を感心しました。
 信心も大変なお徳を受けたの助かったのというておるけれども、二代になると少なくなり、三代になったら滅びると言ったような中にあって、だから御神徳というのはそういうものではない。どこまでも神様の御信用である。ただ御祈念力があるから、ただ御霊徳に秀れて居るから人が助かるのでは大した事はない。御神徳によって人が助かるというのでなからなければならない。しかもその御神徳は子にもあの世にも持って行かれ、この世にも残ると仰せられる、それが御神徳なのである。
 浦島太郎の話を聞いて皆さんどこまでが私はその浦島太郎がかいってそしてそれが子にも孫にも伝えられるような所まで行った時に御神徳というのじゃないだろうか。
 神様が言うて下さった事を守り抜かせて頂く、そこに私は神様の御信用、神様の御信用というのは勿論その内容に神様を信じて疑わない。為には信心、いわゆる真心の追求である。最近合楽で言われるそれこそ真の追求という事はなかなか素晴らしい言葉のようにあってなかなか分からない。けれども合楽理念そのものが真だ。だからこれはピンからキリまでの人達が真になる事が出来るのである。それこそ誰もが実行出来るのである。それが段々極められていくに従って、その限りない、云うなら尽きる事のないおかげにも触れていく事が出来るのである。そこからの一つ御神徳、神様の御信用を受ける。誰でも受けられるというのは、信心という事である。又は真心、真心(しんじん)という事である。又は神心、神心(しんじん)という事である。
 そういう過程を追うていかなければ誰でも、だからそれの手立てを容易う説いてあるのが合楽理念である。それがどの辺からか間違うてきて、一生懸命云うなら御祈念力で助かったとか、例えば霊能的な事で人が助かったとかいう信心とは違った事になってきておる。 信心とはどこまでも昨日のお説教の中にも三代金光様の御一生の御信心と云うならば、初めの間はつろうてつろうてよう泣いた。それでも親様の言われる事であるからと思うて言わば一つも狂わす事なくそれを勤め抜かれた。そうして行かれる中に我情もとれて我欲もとれて有り難うて有り難うてという世界がお開けになられた。そかも有り難い有り難いというその世界におられてです、これ程しのおかげを頂いてそのお礼の足りない事のお詫びばかりしておるというもう尽きぬ所のおかげの世界である。御神徳とはそういうもんだと私は思う。云うならば神様が喜んで下さるおかげの世界だと思う。強引に神様を拝み倒すようにして拝んで頂くというおかげは、だから本当はあんまりせからしく言うからおかげ下さったというおかげで御神徳によるもんじゃない。
 或る先生がもう金光教の信心は御祈念する他にないというて、そこで先生の御祈念によって人が助かっておるという訳ですけれども、その先生の祈念力が無くなったらもう後はすうっとしてしまう。後に残るもんではないのです。だからその御神徳とはあの世にもこの世にも持って行かれ残してもおかれるというようなもの。信心をすればとおっしゃるその信心の内容を確かな間違いのない信心にならなきゃならない。それを合楽では合楽理念に基づいていく限り、私は限りない神徳の世界に誘いを受ける事が出来るというふうに思うんです。今日は私は浦島太郎のその御神願を頂いてね、今日は聞いて頂いたような事を感じました。 どうぞ。